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「あゝ、高間さんの奥さん。――さうですね」
「いや、私はすぐこの近くで医者をしとる、高間といふ者ですが」
「おい、今高間君が来ていたんだよ」
どこかで、「営林署だ」といふ声が聞えた。そして、黒い人影は左手へ向けてぞろぞろと走つて行つた。何か叫び声のやうなものがその方で起つていた。
と、相手は慌ててその筒抜けな声を庫裡の居間に向けて放つた。
「なんだつて、脳溢血?――そいつあ大変だねえ」
「小倉組といふと、下の工事場の方ですな」
ふたたび相手の鞄にちらりと目をやりながら、練吉は半ば信じない風に訊いた。
顎から後頭部にかけてと背部と二所を大きく繃帯でぐるぐる巻きにされた男は、やがて待合室へつれて行かれ、ごろりと転がされた。はじめからしまひまで一言も口を利かなかつた。
ふと気づくと、玄関に人が立つていた、半シャツの男だ。瞬間、又来たな、と思つた。
「ジョン、そら!ウシ!」
間もなく神原直造は一種段取りのついた慇懃いんぎんな荘重さともいふべき様子でゆつくりと来客の居並んだ前へ進み出て挨拶した。彼には紋付の羽織に袴といふ形がいかにもよく似合つていた。その稍角張つた肩のあたりにも、それから、一体に老いて強さはなくなつているが、まつ直ぐな鼻筋だの、その上にかつきり線を引いたやうな白毛まじりの太い眉だのの上には、ちやうど彼の身につけた袴の襞ひだと同じやうに、一種云ふべからざる古雅な端正さがあり、それは同時に低い枯れた声音こわねの中にも響いた。
房一は暑さのために鼻の頭に汗粒を浮かべて、気のない調子で相槌を打つた。その様子でも判るとほり、彼はさつきからまるで別のことで気をとられていた。